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COSMOS
3.「コスモス」企画との出会いについてふり返ると――
1979年3月12日、国際コミュニケーションズ(ICI)代表北岡靖男氏を介して、ドイツのポリテール・インターナショナル、ゲアハルト氏(Dr.Gerhard)が持ち込まれた。最初のタイトルは「Man
And The Cosmos」だった。
当時朝日放送は、翌80年3月の「数え30才」から始まり「満30才」までの一年間にわたる「創立30周年記念」の目玉になるいくつかの番組企画を検討中だった。(ワイドドラマ・井上靖「額田女王」岩下志麻主演、4時間2夜放送、唐招提寺鑑真和上の中国里帰り事業企画と放送「1200年目の回廊」松竹新喜劇、藤山寛美による「桂春団治」公演主催と放送)
ここに、格調高い知的エンターテインメントとして、科学ドキュメンタリー・シリーズが加わることは、大阪の民放局だけにかなり異色な試みになると思われた。
世間一般でも、金星・火星の探査から月面着陸と、宇宙への具体的な関心がもたれるようになり、書店には宇宙ものSFものがふえ、クリスマスや正月プレゼントに望遠鏡人気が出ており、7月9日にボイジャー2号木星接近、9月3日にパイオニア11号土星接近と、さらに宇宙が身近になる話題もあった。宇宙と人間との関わりをふまえ、ロマンと最近技術を駆使した知的映像の組み合わせが実現すれば、民放でも十分注目されるものになる、と判断できた。
そこで、カール・セーガン・プロのマネージャーで、NASA・JPL(ジェット推進研究所)の主任研究員でもあったジェントリ―・リー氏を招き、日本で取材協力する共同制作者の立場からも、内容的な注文を行った。
アメリカは、公共放送の性格が強いPBSネットワークだが、日本では民放での放送であり、より幅広い視聴者の関心を呼び起こせる内容にしていきたいという前提で話し合い、この時以降も3回にわたって担当者を渡米させ、内容面にふみこんでいった。
メディアミックスとしての新聞、雑誌、出版や催事展開にも、強い意欲を持ってのぞんだ。まずセーガン執筆中の「コスモス」の完成を確実にし、放送前に日本でも翻訳出版したい。番組制作のメイキング、使用された道具やセットなどを利用したピクチャーブックの刊行や催しをやりたい。セーガンを迎えて、事前の記者会見、シンポジウム、特に子供たち相手のイベントを行いたい、など要請し、具体的スケジュールの調整を行った。
これらが、ほぼ実現できる見通しが得られて、正式に企画の採用を決定するが、その頃日本の放送は1980年の夏休みベルト編成を想定していた。
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