COSMOS


9.スタッフ紹介

 こうして、カール・セーガンは、1980年が終わる頃には、知らない方がオクレテル、社会現象の一つになったのだった。

 ここで、それぞれの時点・分野で、この人がおられなかったらこうは進んでこられなかったといえるキーパースンの方々を紹介しておきたい。


北岡靖男氏:国際コミュニケーションズ(ICI)代表

 はじめにこの企画を持ち込んでもらった方だが、17年間にわたってタイム・ライフ社の日本代表だったことから、国際的に交友関係が広く、この頃の海外情報でのボスだった。朝日新聞社のTOEIC(Test of English International Communications)の創設者でもある。

 この企画が進みはじめると共に、ドイツ・ポリテール・インターナショナル社からの持込みだったため、この社との契約になり、しかし細かくはセーガン・プロと直接行うという調整をやっていただき、さらに、朝日新聞社や旺文社との別途ルートからの折衝や、電通とのコミュニケーションなど、早い機会に、的確なルートを敷くお手伝いを随分やっていただいた。そうして丁度基本的なレール敷きがほぼ終わったかなという80年3月に、検査で食道癌とわかり、入院手術されるが、最終結果を最も喜んでいただいた方の一人だった。

 その後、入退院をくり返し、手術を8回もされたと聞いたが、97年2月10日69才で他界された。この人に説得されてヘビースモーカーだった私が、禁煙したことを思い出す。


秋田次平氏:朝日放送情報企画局次長

 京都大学から第一回ガリオア留学生(1950年)として3年間、カリフォルニア大学バークレー校、イリノイ大学、アリゾナ大学に留学されていたこともあって、カール・セーガンも感福する英語力の持主。さらに朝日放送からホテルプラザの建設とその運営に10年間出向されていた間の人脈は幅広く、この頃朝日放送に帰り、情報企画局次長として「創立30周年記念」事業の推進幹事役だった。

 結果は、ほとんどカール・セーガン、ジェントリー・リー、アン・ドルーヤンにかかりきりで、京都、奈良、大阪にも同行、ことにセーガンの信頼は厚く、このあとの企画からセーガンの死に至るまで、“Carl”“Jihei-san”の交友がつづき、セーガンの強い遺志もあって、98年12月にNPO法が施工されると共に、NPO法人「日本惑星協会」の設立発起人となり、設立後は専務理事になられた経緯がある。

 双方とも初めての出会いによる仕事であり、日米の習慣から言葉の問題、仕事の分野の違いなどを越えて、ほとんど完全なコミュニケーションを行いながら進行できたのは、まったく“jihei-san"のおかげだった。


小谷正一氏:デスクK代表

 われわれ(秋田次平氏と高岸敏雄)が大阪初の民放テレビ局だったOTV・大阪テレビ放送(開局3年後に朝日放送と合併する)に入社したとき(昭和31年)のボスで、毎日新聞社を経て新大阪新聞社の創設、新日本放送(ラジオ)を開局され、その時代のエピソードから井上靖の小説「闘斗」や「黒い蝶」が生れ、OTVの後は電通東京、独立されてデスクKと、いわゆる「プロデューサー」第1号の称号が捧げられる業績を重ねられた方だった。

 その方に、79年の夏頃、朝日新聞の対応もにぶくて、機敏な集英社か文春を紹介してもらうべく、またカール・セーガンについても自信が持てなかったこともあり、相談に訪ねた事があった。

 「宇宙という相手だけに、信頼性が大事だ。君のいう眠れる獅子でも朝日新聞の力は大きいよ。活用するべきだ。“朝日が”の展開が、スケールを広げる。」とまず教えられ、「カール・セーガンは新しい童話作家だな。月へ人間が行ったその時から、漫画家たちは夢を失ってしまった。科学が人間の夢の先を行くようになってしまったんだ。人間は科学の先にある夢を探し、それを取り戻さないといけなくなってる。

 文科系からは現代のロマンは出てこないだろう。サイエンスをふまえ、それを越えたところに現代の新しいロマンと夢があり、理科系から本もののロマンチストが出現するのではないだろうか。丹下健三とか糸川英夫とか……。エジソン、ディズニ―、そしてセーガンと、アメリカに夢を運んだ3人の天才かもしれない。」

 こういう人こそ、慧眼というのだろう。92年8月8日、80才で永眠された。


木村繁氏:朝日新聞社科学部長

 朝日新聞にこの方がおられての「コスモス」出版だった。1932年熊本生まれ、東大教養学部から朝日新聞社、東京本社科学部長から調査研究室主任研究員になられたときに「コスモス」の翻訳にあたられた。

 オリジナル原稿の完成が延び、おそらく全部入手されたのが6月頃で、10月に出版ということだから大変な作業、御夫妻での徹夜作業だったときいた。さらに抄訳による本誌連載から、セーガン来日時のシンポジウム司会、最終11月13日放送の生中継番組への出演など、この方もキーパーソンだっだ。

 同氏は、翌81年7月にイラスト版「COSMOS」写真集を構成出版までされている。残念ながら87年11月に他界された。

 朝日新聞社は、この後もカール・セーガンの著作を刊行されている。


アン・ドルーヤンとの共著

「はるかな記憶」上下 人間に刻まれた進化の歩み―
  訳・柏原精一、佐々木敏裕、三浦賢
  朝日新聞社 1994年刊、1997年に朝日文庫
  Shadows of Forgotten Ancestors, 1993

「惑星へ」上下
  監訳・森暁雄
  朝日新聞 1996年刊、1998年に朝日文庫
  Pale Blue Dot, 1994

その後の日本での翻訳は

小説「コンタクト」上下
  訳・池央耿、高見浩
  新潮社 1886年刊、1989年に新潮文庫
  Contact, 1885

「カール・セーガン 科学と悪霊を語る」
  訳・青木薫
  新潮社 1997年
  2000年に新潮文庫で改題「人はなぜ エセ科学に騙されるのか」
  The Demon-Haunted World Science as a candle in the Dark, 1995


ジェントリ―・リー氏(Gentry Lee)

 当時38才、NASA・JPL(ジェット推進研究所)の主任研究員で、これまでの宇宙無人探査計画に中枢スタッフとして参画。「コスモス」企画に賛同してカール・セーガン・プロのマネージャーとなった人。南北戦争の南軍リー将軍から六代目の子孫にあたり、テキサスからMIT出身、頭の回転の早いネアカのヤンキー青年で、われわれにも納得できる番組内容作りに大いに力になってくれた。

 彼は「コスモス」に次ぐ企画「ニュークリアス」でも実に身近な仲介役を果たしてくれたが、その後はSF作家に転じ、アーサー・C・クラークとの共著「Cradle」(星々の揺藍)1988年刊でデビューし、「RAMA II」(宇宙のランデブー)三部作(1989、1991、1993年刊)を刊行している。

 邦訳はそれぞれ早川書店から出版され、文庫にもなっている。


朝日放送スタッフ

 朝日放送としては、こうした社外制作による持ち込み番組を検証、編成する窓口は「テレビ編成局」が行い、今回は局次長だった高岸敏雄が総合プロデューサーを担当し、単なる「検証」では済まない実に手の込んだ番組にしてしまったのだった。

 スタッフとして、編成部の企画課長村沢禎彦が契約から制作関係を担当し、番組宣伝部の飯田裕部長と中畑俊二が宣伝、催事を担当、東京支社テレビ編成部岡村黎明次長と阿藤開作課長が東京での連絡、東京テレビ営業部の武川伯、泉英毅が電通東京、スポンサー関係を担当した。